第三通 幸福なる状態について

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 幸福とは、いかなる状態の事を指すのでしょうか。今回は、その事について書かせていただきます。
 
 まず、自らが貧しい生活を送っていると仮定した場合、その様な状態におかれた自分は不幸であると云えるのでしょうか。仮に、物的に富んでいる状態が幸福である事の条件であると定義した場合においては、その様に云う事ができます。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。私たちの住む国は、国際社会において、比較的に富んだ位置を占めています。その事によって、日本よりも後れた国に住 む人々は、日本人よりも不幸だと云えるのでしょうか。後進国に住む僧侶は、私たちよりも不幸なのでしょうか。つまり、物的貧富は私たちの幸不幸を決定する 条件なのでしょうか。
 
 私は、その様には考えておりません。それは、あなた様の箴言を中心とする霊界通信から、セネカの言葉から、偉大なる先人たちから、その様な考え方が誤りである という事を教えていただいたからです。セネカは、貧しい状態こそ好ましいと云います。人間の物的欲望は限りがないのであり、その様なものに心が囚われた状 態のまま生活を送るならば、大切な事に気づかぬまま人生を終えてしまう事になりかねないと云うのです。
 
 それでは、私たちの人生において、大切な事とはいかなる事なのでしょうか。それは、私たちの本質は心的部分、つまり、魂にあるのであり、それに対して、 物的部分、つまり、肉体の様なものは、それに従属するものでしかないという事、その事に気づくという事なのだと思います。
 
 ところで、私たちの本質が肉体であったならば、死後、私たちは無になる、あるいは、灰と骨になると云えます。それに対して、私は魂が永遠に存続するとい う価値観を知っておりますし、その様に信じています。それでは、価値観として前者を信じている場合と、後者を信じている場合においては、いかなる差異が生 じ得るのでしょうか。
 
 私は、現状として、現在の日本人の多くに、前者に囚われがちな傾向があるように感じております。私たちは、戦後期から現在に至る過程で、高度経済成長・ バブル経済を経験する事により、大量生産・大量消費の経済サイクルに慣れ切ってしまった事により、哀しむべき唯物的価値観を、つまり、物質に偏重した価値 観を身に付けてしまったのではないでしょうか。そして、その様な現状が、現代社会における病的傾向に、少なからぬ影響を及ぼしていやしないでしょうか。少 なくとも、私はその様に考えているのです。
 
 セネカは、飲食に不足せず寒さをしのげるならば、それは生活を送るには充分な状態なのだと云います。彼には、必要以上の富を有したならば、心がそれに囚 われるという事がわかっていたのです。そして、その様な状態に陥る事が愚かな事であるとの判断から、物質的なものは最小限にとどめ、自らの魂を鍛える事に 専心したのでした。つまり、割く事のできる限りの時間と労力を、自らの心的部分の為に費やしたのです。
 
 彼にも、魂が永遠に存続するという事がわかっていたのです。死する事によって、肉体という衣服を脱ぎ捨てる事になる、つまり、魂だけの存在になると知ったならば、その魂について、最も好ましい形で死を迎えたいと考える事は、自然な事なのです。
 
 その様な好ましい形に少しでも近づく為に、時間と労力を費やす、努力する、その様な状態は、幸福なる状態と云えましょう。

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このページは、Kenji Takahashiが2008年6月27日 01:51に書いたブログ記事です。

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