まず、この様な形でお手紙を差し上げる事をお許し下さい。私も、現代における社会の病的な傾向に苦しめられている者の一人ですが、自分にでも出来る事はないかと考え、この様な事をさせていただく事にいたしました。
ところで、ローマ時代に、セネカという名の素晴らしい方がいらっしゃいました。私は、その方が執筆された『ルキリウスへの手紙』を読みまして、感銘を受けるという事がありました。それで、同書の形式に倣い、あなた様に124通のお手紙を書かせていただこうと、その様に考えた次第です。
◇ ◇ ◇
この頃、悲しい事件が起きました。個人の精神面における病的傾向が原因と考えられる事件の数というのは、どうも増加傾向にあるようです。それでは、なぜこの様な事件が起きるのでしょうか。
ところで、ローマ時代に、セネカという名の素晴らしい方がいらっしゃいました。私は、その方が執筆された『ルキリウスへの手紙』を読みまして、感銘を受けるという事がありました。それで、同書の形式に倣い、あなた様に124通のお手紙を書かせていただこうと、その様に考えた次第です。
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この頃、悲しい事件が起きました。個人の精神面における病的傾向が原因と考えられる事件の数というのは、どうも増加傾向にあるようです。それでは、なぜこの様な事件が起きるのでしょうか。
それは、一つには当人の"自由意志"の問題なのであり、もう一つは、"環境による影響"の為なのだと思います。
私事になりますが、最近まで、悪癖に苦しめられるという経験をしてきました。もっとも、今なお、その悪癖の害悪から、完全に解放されたとは思っておりません。ローマの哲人セネカは、強すぎる刺激は有害であるが、人間には、その様な刺激に魅き付けられる習性の様なものがあると云います。強い刺激を求め、手に入れ、その状態が常態となったならば、更に強い刺激を求める様になるのだそうです。
しかし、その様な事を繰り返したならば、害悪は蓄積されているのであり、いわば、雪だるま式に増大していく事になるのです。そして、結局のところ、それは心身への悪影響という形で、我が身に返ってくるのだという事を、私は知りました。
悪癖に囚われている間、私は、蛇に睨まれ、或いは、心臓に噛みつかれるイメージに、度々苦しめられました。今思うと、それは、私の行為が精神面に対して好ましくない影響を及ぼしているという事を、知らせる為のものであったのかも知れません。
ところで、この様な欲求は本能的なものなのだと思います。猿に自慰を教えると、死ぬまで続けるのだそうです。しかし、人間には理性というものがあり、自由な思考に基づいて行動する事が出来ます。それなのに、本能的な欲求のみに従い、強い刺激に曝され続ける様な事は、賢い行動であるとは云えません。
その様な、いわば当たり前の事に気付き、ある時、私は悪癖を止める事に決めました。しかし、実は、それは大変な努力を要する事だったのでした。それ迄に吸収していた害悪が、既に私の心的部分の一定のスペースを占有しており、実は、知らず知らずのうちに、思考と行動において影響力を行使していたからです。
その為、当時の私の心は、脂汗が流れる中、理性的な判断と本能的な衝動の間で揺れ動く様な状態が続き、好ましい状態に至るまでには、相応の努力と忍耐が必要でした。刺激の弱い代用品を使用する様な工夫も行っています。
結果として、私は、自由意志の力により、悪癖から、そして、その悪癖のもたらす心身における病的傾向から免れる事ができました。しかし、万人が同じ様な過程を経るわけではないようです。例えば、判断力や知識が不足していれば、悪癖が悪癖である事に気付かないかも知れません。そして、仮にそれが悪癖である事に気が付いたとしても、意志の力が弱ければ、本能的な衝動に任せるままとなり、やがて、病んでしまうかも知れません。
次に、環境という事であれば、現代社会におけるそれは悪化の傾向にある事がわかります。私は、ディヴィッド・シェンクという方が執筆した『ハイテク過食症』を読んでから、パソコンに向かう時間を極力減らす様になりました。それは、テレビゲームやパソコン、インターネット、携帯電話の様な、新しい機械・メディアは、接している当人を情報過多の状態に陥らせ、やがて、精神面における病的な状態を招くという事がわかったからです。テクノロジーの発達が、それを行った人類自身を苦しめている現状は皮肉です。
私事になりますが、最近まで、悪癖に苦しめられるという経験をしてきました。もっとも、今なお、その悪癖の害悪から、完全に解放されたとは思っておりません。ローマの哲人セネカは、強すぎる刺激は有害であるが、人間には、その様な刺激に魅き付けられる習性の様なものがあると云います。強い刺激を求め、手に入れ、その状態が常態となったならば、更に強い刺激を求める様になるのだそうです。
しかし、その様な事を繰り返したならば、害悪は蓄積されているのであり、いわば、雪だるま式に増大していく事になるのです。そして、結局のところ、それは心身への悪影響という形で、我が身に返ってくるのだという事を、私は知りました。
悪癖に囚われている間、私は、蛇に睨まれ、或いは、心臓に噛みつかれるイメージに、度々苦しめられました。今思うと、それは、私の行為が精神面に対して好ましくない影響を及ぼしているという事を、知らせる為のものであったのかも知れません。
ところで、この様な欲求は本能的なものなのだと思います。猿に自慰を教えると、死ぬまで続けるのだそうです。しかし、人間には理性というものがあり、自由な思考に基づいて行動する事が出来ます。それなのに、本能的な欲求のみに従い、強い刺激に曝され続ける様な事は、賢い行動であるとは云えません。
その様な、いわば当たり前の事に気付き、ある時、私は悪癖を止める事に決めました。しかし、実は、それは大変な努力を要する事だったのでした。それ迄に吸収していた害悪が、既に私の心的部分の一定のスペースを占有しており、実は、知らず知らずのうちに、思考と行動において影響力を行使していたからです。
その為、当時の私の心は、脂汗が流れる中、理性的な判断と本能的な衝動の間で揺れ動く様な状態が続き、好ましい状態に至るまでには、相応の努力と忍耐が必要でした。刺激の弱い代用品を使用する様な工夫も行っています。
結果として、私は、自由意志の力により、悪癖から、そして、その悪癖のもたらす心身における病的傾向から免れる事ができました。しかし、万人が同じ様な過程を経るわけではないようです。例えば、判断力や知識が不足していれば、悪癖が悪癖である事に気付かないかも知れません。そして、仮にそれが悪癖である事に気が付いたとしても、意志の力が弱ければ、本能的な衝動に任せるままとなり、やがて、病んでしまうかも知れません。
次に、環境という事であれば、現代社会におけるそれは悪化の傾向にある事がわかります。私は、ディヴィッド・シェンクという方が執筆した『ハイテク過食症』を読んでから、パソコンに向かう時間を極力減らす様になりました。それは、テレビゲームやパソコン、インターネット、携帯電話の様な、新しい機械・メディアは、接している当人を情報過多の状態に陥らせ、やがて、精神面における病的な状態を招くという事がわかったからです。テクノロジーの発達が、それを行った人類自身を苦しめている現状は皮肉です。
