今回は、修養について書かせていただきます。修養とは、学問を修め、精神をみがき、人格を高めるよう努力する事です。私はこの様な行為を実行し得るか否かが、人間と他の動物とを区別するものなのではないかと考えております。
例えば、猿は比較的に人間に近い姿等を有しておりますが、それでも、やはり猿は本能的な動物であると云えます。それは、理性的な能力、つまり、思考する能力に乏しいからであり、それ故、その様に判断する事ができるのです。
例えば、猿は比較的に人間に近い姿等を有しておりますが、それでも、やはり猿は本能的な動物であると云えます。それは、理性的な能力、つまり、思考する能力に乏しいからであり、それ故、その様に判断する事ができるのです。
それに対して、人間は理性的な能力を有しております。本能とは、生まれつき備わっている性質や能力の事ですが、人間には、それに加えて、すじみちを立てて物事を考え、判断する能力、つまり、理性的な能力が備わっているわけです。
それでは、理性的な能力の有無には、いかなる意味があるのでしょうか。
年に一度、動物園に行き、特定の猿を観察すると仮定しましょう。その猿の様子について、翌年も、翌々年も、著しい変化は生じないでしょう。もちろん、病気になる事はあるかも知れませんし、加齢に応じて老いて行くに違いありません。しかし、猿は、自らの思考や判断により賢くなって行く事はできないのであり、その様な意味において、変化は生じ得ないと云えます。そして、それは、人間以外の全ての生物がそうなのであり、理性的な能力が欠如している事により、その様になっているのです。
人間には、理性的な能力が備わっています。それ故、自らが有している時間や労力について、いかなる事柄に費やすのか、自ら考え、判断し、行動する事ができます。つまり、自由意志に基づいて自らの行動を決する事ができるのです。
この様な能力は、地球上の生物のうち人間にだけ与えられた、いわば、特別な恩恵なのですが、当人たちの中に、その有難みを理解しないままに生涯を終える者が少なくない事は残念な事です。せっかく人間として生を受けていながら、その能力を無駄にした様な、怠惰な生活を送る事は避けるべきではないでしょうか。
私は、自らの魂が永遠に存続するという事を存じ上げております。しかし、その一方で、一人の人間の生涯が一度きりのものであるという事も、また然りであると云えましょう。私たちには、あとどれ位の時間が残されているのでしょうか。それは、あと数十年かも知れませんし、数年かも知れません。
それでは、私たちは、その様な有限なる時間を、いかなる事に費やしていくべきなのでしょうか。
無為に過ごすような事は、愚かな事であると云えます。その様な振舞は、与えられた恩恵に対する、裏切り行為を意味するからです。
修養を積み重ねる事により、私たちは、今までよりも賢くなっていく事ができます。修養とは、読書や思索、創作をする事なのであり、今までよりも他者に対して優しく接する、つまり、心を愛で満たしていく事でもあります。その様にして、心的部分を鍛えて行く事ができるのです。
私たちは、特別に与えられた能力を無駄にしてはいけないのだと思います。それを無駄にせぬ為にも、死して後に困らぬ為にも、修養を積み重ね、心的部分を鍛え上げておく事が肝要であると云えましょう。
それでは、理性的な能力の有無には、いかなる意味があるのでしょうか。
年に一度、動物園に行き、特定の猿を観察すると仮定しましょう。その猿の様子について、翌年も、翌々年も、著しい変化は生じないでしょう。もちろん、病気になる事はあるかも知れませんし、加齢に応じて老いて行くに違いありません。しかし、猿は、自らの思考や判断により賢くなって行く事はできないのであり、その様な意味において、変化は生じ得ないと云えます。そして、それは、人間以外の全ての生物がそうなのであり、理性的な能力が欠如している事により、その様になっているのです。
人間には、理性的な能力が備わっています。それ故、自らが有している時間や労力について、いかなる事柄に費やすのか、自ら考え、判断し、行動する事ができます。つまり、自由意志に基づいて自らの行動を決する事ができるのです。
この様な能力は、地球上の生物のうち人間にだけ与えられた、いわば、特別な恩恵なのですが、当人たちの中に、その有難みを理解しないままに生涯を終える者が少なくない事は残念な事です。せっかく人間として生を受けていながら、その能力を無駄にした様な、怠惰な生活を送る事は避けるべきではないでしょうか。
私は、自らの魂が永遠に存続するという事を存じ上げております。しかし、その一方で、一人の人間の生涯が一度きりのものであるという事も、また然りであると云えましょう。私たちには、あとどれ位の時間が残されているのでしょうか。それは、あと数十年かも知れませんし、数年かも知れません。
それでは、私たちは、その様な有限なる時間を、いかなる事に費やしていくべきなのでしょうか。
無為に過ごすような事は、愚かな事であると云えます。その様な振舞は、与えられた恩恵に対する、裏切り行為を意味するからです。
修養を積み重ねる事により、私たちは、今までよりも賢くなっていく事ができます。修養とは、読書や思索、創作をする事なのであり、今までよりも他者に対して優しく接する、つまり、心を愛で満たしていく事でもあります。その様にして、心的部分を鍛えて行く事ができるのです。
私たちは、特別に与えられた能力を無駄にしてはいけないのだと思います。それを無駄にせぬ為にも、死して後に困らぬ為にも、修養を積み重ね、心的部分を鍛え上げておく事が肝要であると云えましょう。
