今回は、差別について書かせていただきます。
人間は、地上世界に生まれ出た時点において、既に平等ではないと云えます。どの様な国において、どの様な両親の子供として生まれるのか、富裕な家庭であるのか、貧しい環境であるのか、その様な事は、千差万別であるからです。
人間は、地上世界に生まれ出た時点において、既に平等ではないと云えます。どの様な国において、どの様な両親の子供として生まれるのか、富裕な家庭であるのか、貧しい環境であるのか、その様な事は、千差万別であるからです。
富んだ家庭において生長するならば、貧しい境遇におかれた人々の苦しみを、"対岸の火事"の様に感じるかも知れません。一方、貧しい環境で生長したとすれば、富裕な環境におかれた人々に対して、羨望や憎しみの感情を抱く様な事は、無理からぬ事の様に思われます。
前者については、実のところ、私たちの多くにその様な傾向があると云えないでしょうか。世界に目を向ければ、飢えや貧困が切実な問題である事がわかります。ところが、その様な人々が存在するのに対し、私たちの多くは、自身の富に執着し、彼らに富を分け与えようとは考えません。そして、後者については、その様な境遇におかれた人々の多くが、社会主義運動の担い手、原動力となって来たという事が云えましょう。それは、生活を少しでも豊かにする為の、飢えや貧困から抜け出る為の、切実な問題を源とする運動であるわけです。
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次に、民族差別に話を移しますと、日本人の多くは、ユダヤ人に対して同情的な見方をしています。それは、学校教育や映画観賞という手段によって、大戦中、彼らがナチスに迫害されたという事を知っているからであり、その様な映画を観て涙したからです。その事自体について、もっともな事であると云えます。大量殺戮のごとき所業は悪魔的なものなのであり、彼らはその被害者であるからです。
しかし、同じ日本人が、在日朝鮮人や韓国人、中国人に対しては異なる態度を取る事については、疑問に感じざるを得ません。私は、これらの人々を馬鹿にしたり、差別的な態度を取ってきた日本人が少なくないという事を知っています。
それでは、なぜ日本人の多くは、二重の基準を設けているのでしょうか。なぜ、ホロコーストに涙し、南京大虐殺は無視するのでしょうか。
それは、一つには、ホロコーストが行われたのが欧州であり、南京大虐殺が行われたのが中国大陸である様に、ユダヤ人は遠方に、そして、後の三者は近隣に存在し続けてきたのであり、その様な状況が影響を及ぼしているのではないでしょうか。つまり、前者と異なり、後者と日本人との間には利害関係が存在し続けて来たのであり、前者に対する様な寛大な態度が取れないのではないのでしょうか。
次に、日本人と後者との利害関係を突き詰めていくと、それは、大体において、加害者と被害者との関係であるという事がわかります。その当時の時勢が影響した事に違い無いのですが、日本が韓国を併合し、中国に対しては侵攻した事により、後者を苦しめた、或いは、苦しめ続けているという事も、また、間違いの無いところなのです。
それでは、なぜ日本人の多くは、後者に対して、儀式的なものではない、心からの謝意を抱かないのでしょうか。
その事について考えていますと、国力という要素が関係しているのではないか、その様な思いが浮かんで来ました。実のところ、国力という面に関して、戦前から戦中、戦後にかけて、そして、つい最近まで、日本は、韓国や中国に対して優位に立っていたのです。つまり、産業が発達しており、国民の生活は豊かであったわけですが、この様な状況が、日本人の多くをおごり高ぶらせ、心からの謝意を抱く機会を、そして、差別的な意識を改める機会を失わせて来たのではないでしょうか。
この様な差別意識は、主に、日本人の中の心の弱い層、心的に洗練されていない層に存在している様に感じられますが、それは、その様な人々に限って、自身よりも虐げられた人々を欲するという傾向があるからです。つまり、ストレス発散の為なのですが、その様な必要性から、後者への差別意識が存在し続けた面があるのではないでしょうか。その様な意識を持ち続けるという事は、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』において描写した様な、白人からの差別的構造を受け入れ、その代わり、自分たちは後者に対して差別的な態度を取るという様な、卑屈な構造の一役を担う事を意味しはしないでしょうか。
このように考えていくと、日本人の中にある後者への差別意識というものは、低い心境より生じて来ているという事がわかります。
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ところで、この様な差別や物的貧富は、地上世界にのみ存在するものです。地上世界には、魂を鍛え上げる為の試練の場としての役割がありまして、私たちは、この様な環境の差異が生み出す否定的な影響、つまり、堕落・慢心・貧苦・憎悪等を克服していく事により、心的に成長していく、つまり、魂を鍛え上げていく事ができるのです。
私たちの本来の世界には、物は存在しません。霊だけが存在するのです。その為、地上世界において、物的な富を蓄える為に一生を費やすような事は、愚かなる行為であると云えます。
それでは、本来の世界、つまり、霊的な世界における富める人とは、どの様な人なのでしょうか。
それは、地上世界の苦しみや障壁を乗り越え、困っている人を助けてあげられる人、心が愛で満たされており、その様な思いに基づいて行動する事ができる人、であると云えます。そして、物ではなく、心こそが大切である事に気づき、その様な価値観に基づき行動している人であるとも云えるでしょう。
前者については、実のところ、私たちの多くにその様な傾向があると云えないでしょうか。世界に目を向ければ、飢えや貧困が切実な問題である事がわかります。ところが、その様な人々が存在するのに対し、私たちの多くは、自身の富に執着し、彼らに富を分け与えようとは考えません。そして、後者については、その様な境遇におかれた人々の多くが、社会主義運動の担い手、原動力となって来たという事が云えましょう。それは、生活を少しでも豊かにする為の、飢えや貧困から抜け出る為の、切実な問題を源とする運動であるわけです。
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次に、民族差別に話を移しますと、日本人の多くは、ユダヤ人に対して同情的な見方をしています。それは、学校教育や映画観賞という手段によって、大戦中、彼らがナチスに迫害されたという事を知っているからであり、その様な映画を観て涙したからです。その事自体について、もっともな事であると云えます。大量殺戮のごとき所業は悪魔的なものなのであり、彼らはその被害者であるからです。
しかし、同じ日本人が、在日朝鮮人や韓国人、中国人に対しては異なる態度を取る事については、疑問に感じざるを得ません。私は、これらの人々を馬鹿にしたり、差別的な態度を取ってきた日本人が少なくないという事を知っています。
それでは、なぜ日本人の多くは、二重の基準を設けているのでしょうか。なぜ、ホロコーストに涙し、南京大虐殺は無視するのでしょうか。
それは、一つには、ホロコーストが行われたのが欧州であり、南京大虐殺が行われたのが中国大陸である様に、ユダヤ人は遠方に、そして、後の三者は近隣に存在し続けてきたのであり、その様な状況が影響を及ぼしているのではないでしょうか。つまり、前者と異なり、後者と日本人との間には利害関係が存在し続けて来たのであり、前者に対する様な寛大な態度が取れないのではないのでしょうか。
次に、日本人と後者との利害関係を突き詰めていくと、それは、大体において、加害者と被害者との関係であるという事がわかります。その当時の時勢が影響した事に違い無いのですが、日本が韓国を併合し、中国に対しては侵攻した事により、後者を苦しめた、或いは、苦しめ続けているという事も、また、間違いの無いところなのです。
それでは、なぜ日本人の多くは、後者に対して、儀式的なものではない、心からの謝意を抱かないのでしょうか。
その事について考えていますと、国力という要素が関係しているのではないか、その様な思いが浮かんで来ました。実のところ、国力という面に関して、戦前から戦中、戦後にかけて、そして、つい最近まで、日本は、韓国や中国に対して優位に立っていたのです。つまり、産業が発達しており、国民の生活は豊かであったわけですが、この様な状況が、日本人の多くをおごり高ぶらせ、心からの謝意を抱く機会を、そして、差別的な意識を改める機会を失わせて来たのではないでしょうか。
この様な差別意識は、主に、日本人の中の心の弱い層、心的に洗練されていない層に存在している様に感じられますが、それは、その様な人々に限って、自身よりも虐げられた人々を欲するという傾向があるからです。つまり、ストレス発散の為なのですが、その様な必要性から、後者への差別意識が存在し続けた面があるのではないでしょうか。その様な意識を持ち続けるという事は、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』において描写した様な、白人からの差別的構造を受け入れ、その代わり、自分たちは後者に対して差別的な態度を取るという様な、卑屈な構造の一役を担う事を意味しはしないでしょうか。
このように考えていくと、日本人の中にある後者への差別意識というものは、低い心境より生じて来ているという事がわかります。
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ところで、この様な差別や物的貧富は、地上世界にのみ存在するものです。地上世界には、魂を鍛え上げる為の試練の場としての役割がありまして、私たちは、この様な環境の差異が生み出す否定的な影響、つまり、堕落・慢心・貧苦・憎悪等を克服していく事により、心的に成長していく、つまり、魂を鍛え上げていく事ができるのです。
私たちの本来の世界には、物は存在しません。霊だけが存在するのです。その為、地上世界において、物的な富を蓄える為に一生を費やすような事は、愚かなる行為であると云えます。
それでは、本来の世界、つまり、霊的な世界における富める人とは、どの様な人なのでしょうか。
それは、地上世界の苦しみや障壁を乗り越え、困っている人を助けてあげられる人、心が愛で満たされており、その様な思いに基づいて行動する事ができる人、であると云えます。そして、物ではなく、心こそが大切である事に気づき、その様な価値観に基づき行動している人であるとも云えるでしょう。
