第七通 貧しさについて

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 この頃の様々な状況について考えますと、今後、私たちが貧しくなる可能のあるという事がわかります。それでは、その事は何を意味しているのでしょうか。
 
 今回は、貧しさについて書かせていただきます。
 ドストエフスキーの小説を読みますと、一九世紀のロシアに生きた人々の、生活の様子について知ることができます。彼の作品における舞台の多くはペテルブルグなのですが、作品中において、ボロや汚れた服を身に纏い、狭く不衛生なアパートに住み、その家賃は滞納し、一日のうちに一切れのパンとお茶に有り付く事により、何とか生活を送っている人々が登場します。
 
 それは、『貧しき人々』におけるマカール・ジェーヴシキンなのであり、『虐げられた人々』におけるスミス老人であり、『罪と罰』のラスコーリニコフです。
 
 彼らの身の上は、下級役人であったり、元大学生だったり、様々なのですが、共通している事は、現在の私たちよりも明らかに貧しく、質素な生活を送っているという事です。そして、その様な生活は、当時のペテルブルグにおいては別段珍しくもなかった様なのです。
 
 私たちの多くは、汚れ一つない衣服を身に纏い、クーラーの効く快適で清潔なアパート、或いは一軒家に住み、栄養過剰な程の食事を摂っています。そして、車を乗り回したり、余暇を贅沢に楽しんだりさえしています。
 
 この様な私たちの生活は、ドストエフスキーの描いたペテルブルグの人々の生活と比し、豊かなものなのでしょうか。確かに、それは一面においてはそうなのだと思います。物的な面において、私たちは彼らよりもはるかに恵まれているのです。
 
 それでは、心的な面においてはどうなのでしょうか。
 
 心的な部分ということであれば、一九世紀に生きた彼らのそれは、私たちのそれよりも明らかに優美であると云えましょう。それは、作品を読むことにより理解のできる事ですが、私はその原因をも知っております。その差異は、環境の違いに因るのです。
 
 現代の社会は、当時のペテルブルグには無かった様な、精神を汚すもので満ちあふれています。そして、そこには商業主義とテクノロジーの進化の共犯関係があるのであり、長らく、ポルノやテレビが、この頃は、インターネットや携帯電話が、その役割を担っているのです。
 
 つまり、私たちと一九世紀に生きた彼らを比較すると、物的には私たちの方が恵まれているのですが、逆に、心的には貧しいという事が云えます。
 
 それでは、話を元に戻させていただきます。私は、今後の状況次第では、件のペテルブルグの彼らが送った生活に、私たちのそれが近付いて行く事も有り得ると考えています。そうすると、仮に私たちの生活水準が彼らのそれと横並びになったとしたら、私たちは、物心共に彼らと同程度の存在となるのでしょうか。
 
 残念な事ですが、私は、その様にはならないと考えています。私たちが物的に貧しくなるという事は、物的に富んでおり心的には貧しい者が、物心共に貧しい状態に移行するという事を意味するからです。
 
 この様に考えて行くと、問題の本質が何であるのかが解って来ます。
 
 私たちは、現状として、物的に充分に富んでいるのであり、将来的な、不確かな貧困の可能性を頭に思い描き苦悩する必要は、少しもないのではないでしょうか。その様な苦しみは、精神面が充実していないが為に生じて来るものなのであり、その為、精神面を充実させる事が肝要であると云えます。言い換えますと、心的な部分がしっかりとしてさえいれば、貧しさを乗り越える事ができるのではないでしょうか。
 
 それでは、心的な部分を充実させる為には、何を為せばよいのでしょうか。私たちは、その様な大切な事について、よくよく考えて行く必要があると云えましょう。

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このページは、Kenji Takahashiが2008年7月23日 07:13に書いたブログ記事です。

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