今回は、唯物的価値観を有す者と、物心両面に通暁した者、この二者の差異について検討します。
仮に、数年後、私たちが著しく貧しくなる事が確定しているとしたならば、二者はいかなる反応を示すのでしょうか。
仮に、数年後、私たちが著しく貧しくなる事が確定しているとしたならば、二者はいかなる反応を示すのでしょうか。
前者の多くは、その否定的な影響力により、意気消沈とするのではないでしょうか。それは、彼らは物的側面しか見ていないのであり、その物的な面で不足が生じる事が明らかとなったのだから、その様になる道理なのです。
そして、この様な状態の継続は、陰鬱さや病的な状態へとつながり、精神的なストレスを増大させるに違いありません。しかし、その一方で、その様な機会は、今までは物質に偏重した価値観に毒され続けて来た人々が、己の過ちに気付き、真の豊かさとは何であるか知る切っ掛けにもなるのです。
後者については、はじめに真贋が明らかとなるでしょう。後者であると表明していたとしても、中身が生半可ならば、前者と同じ事なのです。
本当に物心両面に通暁した者ならば、その様な状況下においても取り乱す事はないでしょう。それは、生活が貧しくなる事が明らかであるにしても、もっと大切な事を既に知っているからです。
つまり、自らの本質が心であるという事を、その心は肉体の滅した後も存在するという事を、知っているのだから、一時的な地上生活における、一時的な富の変動には左右されないのです。そして、彼らが優美な存在である事が明らかであるならば、それは、魂が永遠に存続するという事実が念頭にあり、高い境涯に生きている、或いは、少しでも高い境地に至ろうと努力している、その姿が反映されたものなのではないでしょうか。
◇ ◇
それでは、次の想定は如何でしょうか。仮に、数年後、私たちが死する事が確定しているとしたら、件の二者はいかなる反応を示すでしょうか。
この問いは、先の問いの究極的なものである、という事が云えましょう。
一つ云える事は、その様な状況下においては、どの様な価値観を有しているかという事よりも、その者の本質が問われるという事です。つまり、その者の内面が洗練されているか否かが問題となるのであり、それは、博愛的な意思を有し、実生活と真剣に向き合って来たか、本を読む等し、自己の内面を高めようという努力を継続してきたかが問われている、という事を意味します。
その様な次第で、死とは、いわば地上生活の卒業試験ですので、それに際しては、合格者と落第者とに路が別れるのですが、その死を予め告知した場合においては、いたずらに落第者達を刺激する事になり、地上世界に混乱が生じる可能性があるという事が云えるでしょう。
物的容貌に関わらず、洗練された内面を有している者は、その者の生死に関係なくその様なのであるし、未熟なる内面を有している者も、また、然りなのです。
この様に考えていくと、地上生活を送るにあたり、何を大切にすべきかがわかってくる様に感じられます。
類は友を呼ぶのだそうです。卑しき心を有している者の許には、同じように低俗な内面を有しいる生者・亡者が群がって来るのみなのであり、それ故、自らの心境が向上する様に努め、博愛的な生活を実践するのがよいのです。
そして、人間には、せっかく物を考える力が与えられているのだから、この力を鍛え上げる事は私たちの義務であるという事が云えるでしょう。それ故、読書・思索・創作を日々の習慣とし、自己の内面を向上させる事は好ましい事なのです。
私たちは、遅かれ早かれ、死する存在です。そして、その際に、嫌でも自己の本質と向かい合う必要が生じるのではないでしょうか。
そして、この様な状態の継続は、陰鬱さや病的な状態へとつながり、精神的なストレスを増大させるに違いありません。しかし、その一方で、その様な機会は、今までは物質に偏重した価値観に毒され続けて来た人々が、己の過ちに気付き、真の豊かさとは何であるか知る切っ掛けにもなるのです。
後者については、はじめに真贋が明らかとなるでしょう。後者であると表明していたとしても、中身が生半可ならば、前者と同じ事なのです。
本当に物心両面に通暁した者ならば、その様な状況下においても取り乱す事はないでしょう。それは、生活が貧しくなる事が明らかであるにしても、もっと大切な事を既に知っているからです。
つまり、自らの本質が心であるという事を、その心は肉体の滅した後も存在するという事を、知っているのだから、一時的な地上生活における、一時的な富の変動には左右されないのです。そして、彼らが優美な存在である事が明らかであるならば、それは、魂が永遠に存続するという事実が念頭にあり、高い境涯に生きている、或いは、少しでも高い境地に至ろうと努力している、その姿が反映されたものなのではないでしょうか。
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それでは、次の想定は如何でしょうか。仮に、数年後、私たちが死する事が確定しているとしたら、件の二者はいかなる反応を示すでしょうか。
この問いは、先の問いの究極的なものである、という事が云えましょう。
一つ云える事は、その様な状況下においては、どの様な価値観を有しているかという事よりも、その者の本質が問われるという事です。つまり、その者の内面が洗練されているか否かが問題となるのであり、それは、博愛的な意思を有し、実生活と真剣に向き合って来たか、本を読む等し、自己の内面を高めようという努力を継続してきたかが問われている、という事を意味します。
その様な次第で、死とは、いわば地上生活の卒業試験ですので、それに際しては、合格者と落第者とに路が別れるのですが、その死を予め告知した場合においては、いたずらに落第者達を刺激する事になり、地上世界に混乱が生じる可能性があるという事が云えるでしょう。
物的容貌に関わらず、洗練された内面を有している者は、その者の生死に関係なくその様なのであるし、未熟なる内面を有している者も、また、然りなのです。
この様に考えていくと、地上生活を送るにあたり、何を大切にすべきかがわかってくる様に感じられます。
類は友を呼ぶのだそうです。卑しき心を有している者の許には、同じように低俗な内面を有しいる生者・亡者が群がって来るのみなのであり、それ故、自らの心境が向上する様に努め、博愛的な生活を実践するのがよいのです。
そして、人間には、せっかく物を考える力が与えられているのだから、この力を鍛え上げる事は私たちの義務であるという事が云えるでしょう。それ故、読書・思索・創作を日々の習慣とし、自己の内面を向上させる事は好ましい事なのです。
私たちは、遅かれ早かれ、死する存在です。そして、その際に、嫌でも自己の本質と向かい合う必要が生じるのではないでしょうか。

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