将来に生じうる最悪の状態をイメージし、その事に対する心の準備を充分にしておく事は、よりよい状態につながるのだと云います。私は、セネカの著書『ルキリウスへの手紙』にふれる事により、その様な事を知りました。
それでは、私にとっての最悪の状態とは、いかなる状態の事を指すのでしょうか。
それでは、私にとっての最悪の状態とは、いかなる状態の事を指すのでしょうか。
それは、物的には、ホームレスになる事であると感じています。日本における景気の動向が不透明である現在、その様な状態に陥る可能性を考える事は、もはや、荒唐無稽な事とは云えないでしょう。
それでは、それは、具体的にどの様な状態なのでしょうか。
住環境については、ブルーシートに囲われた様な仮家屋であれ、その有無には大きな差異があると云えそうです。仮に、その様な仮家屋があれば、雨露をしのぎ、暖を取り、調理・洗濯をし、更には、本を読んだり書き物をする事のできる余地が生まれるからです。つまり、仮家屋は、劣悪であれど家屋に違いないのであり、機能においてもそれに準じたものを有しているのです。
一方、その様な仮家屋を有していない場合においては、その機能を享受する事ができないという事が云えます。そして、その様な場合においては、ベンチの上で寝起きをする等するしかないのです。
衣服については、有り合わせのボロを身にまとうしか途は無いでしょう。しかし、その容姿については、顔や身体を洗い、髭を剃り、衣類を洗濯する機会の有無により、大きな差異が生じる筈です。
食事について、私は充分な知識を有していません。残飯をあさるしか無いのかも知れませんし、週に幾日かは、炊き出しの様な事が行われているのかも知れません。或いは、空き缶を集めてどこかへ持って行くと、その日の食費位は稼ぐ事ができるのでしょうか。
それでは、心的には、それは、いかなる状態の事を指すのでしょうか。
それは、私は、心的な自由を失った状態なのだと感じています。カルト的な性質を有している団体の圧力に屈し、或いは、その巧妙な手法に欺かれる等して、その様な状態に陥る可能性は無いとは云えないでしょう。
この事については、その様な状態に陥る事の危険性についての認識を深める事に加え、その様な団体と関わり合いにならない事が肝要であると云えます。それは、心的な自由を失うとは、自らの自由意思に基づき地上生活を営む事ができない事を意味するのであり、その様な状態になったならば、もはや、地上生活を営む意義が失われるからです。
つまり、私は、カルトか死かを選択せねばならないのであれば死を選ぶのでしょうし、前者とホームレスという事であれば、後者を選択するに違いないのです。そして、恥の意識がその様な状態が許さないのであれば、その時、私は後者と死のどちらかを選ばなくてはならないでしょう。
◇ ◇
次に自死について書かせて頂きます。
自死という行為は、許されない行為であると云われています。それは、天、つまり、大霊の与えたもうた尊い生命を、私たち人間の矮小な意思によりて、勝手に失わせる事は許されない、という理由によります。
しかし、私には、この事は、自らの命を断つという行為が絶対に許されないという事を意味するのではない、という認識があります。セネカは、臆病者の死を咎めますが、極限まで努力を継続した上での、前進的な意味合いのある自死を認めています。
例えば、生きるのが辛いとか、将来に希望を持てない等の理由で、自死をする事は許されない事である様に感じます。それは、結局は、苦しみからの逃避なのであり、自己中心的な考えが源にある行動であるからです。しかし、次のケースはどうでしょうか。
本人は、カルト的な性質を有している団体に入信を強要され続けており、その影響力が家庭内にまで及んでいるとします。仮に、その様な状態が永く続いたとしても、将来に対する悲観的な見方に支配され自死したという事であれば、死後にその償いをしなければならなくなるでしょう。
それに対して、限界までその様な状態を耐え忍び、それでも災悪を避ける事のできない場合、そして、屈する事により、社会に対して否定的な影響力を行使する側に回ることがわかっている様な場合においては、自死という行為は許容されるのではないでしょうか。
これらの事については、私自身、将来に何が待ち受けているのかわからないのですから、日頃からの修養を怠らないと共に、心身を清浄にしておく事が肝要であると云えましょう。
それでは、それは、具体的にどの様な状態なのでしょうか。
住環境については、ブルーシートに囲われた様な仮家屋であれ、その有無には大きな差異があると云えそうです。仮に、その様な仮家屋があれば、雨露をしのぎ、暖を取り、調理・洗濯をし、更には、本を読んだり書き物をする事のできる余地が生まれるからです。つまり、仮家屋は、劣悪であれど家屋に違いないのであり、機能においてもそれに準じたものを有しているのです。
一方、その様な仮家屋を有していない場合においては、その機能を享受する事ができないという事が云えます。そして、その様な場合においては、ベンチの上で寝起きをする等するしかないのです。
衣服については、有り合わせのボロを身にまとうしか途は無いでしょう。しかし、その容姿については、顔や身体を洗い、髭を剃り、衣類を洗濯する機会の有無により、大きな差異が生じる筈です。
食事について、私は充分な知識を有していません。残飯をあさるしか無いのかも知れませんし、週に幾日かは、炊き出しの様な事が行われているのかも知れません。或いは、空き缶を集めてどこかへ持って行くと、その日の食費位は稼ぐ事ができるのでしょうか。
それでは、心的には、それは、いかなる状態の事を指すのでしょうか。
それは、私は、心的な自由を失った状態なのだと感じています。カルト的な性質を有している団体の圧力に屈し、或いは、その巧妙な手法に欺かれる等して、その様な状態に陥る可能性は無いとは云えないでしょう。
この事については、その様な状態に陥る事の危険性についての認識を深める事に加え、その様な団体と関わり合いにならない事が肝要であると云えます。それは、心的な自由を失うとは、自らの自由意思に基づき地上生活を営む事ができない事を意味するのであり、その様な状態になったならば、もはや、地上生活を営む意義が失われるからです。
つまり、私は、カルトか死かを選択せねばならないのであれば死を選ぶのでしょうし、前者とホームレスという事であれば、後者を選択するに違いないのです。そして、恥の意識がその様な状態が許さないのであれば、その時、私は後者と死のどちらかを選ばなくてはならないでしょう。
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次に自死について書かせて頂きます。
自死という行為は、許されない行為であると云われています。それは、天、つまり、大霊の与えたもうた尊い生命を、私たち人間の矮小な意思によりて、勝手に失わせる事は許されない、という理由によります。
しかし、私には、この事は、自らの命を断つという行為が絶対に許されないという事を意味するのではない、という認識があります。セネカは、臆病者の死を咎めますが、極限まで努力を継続した上での、前進的な意味合いのある自死を認めています。
例えば、生きるのが辛いとか、将来に希望を持てない等の理由で、自死をする事は許されない事である様に感じます。それは、結局は、苦しみからの逃避なのであり、自己中心的な考えが源にある行動であるからです。しかし、次のケースはどうでしょうか。
本人は、カルト的な性質を有している団体に入信を強要され続けており、その影響力が家庭内にまで及んでいるとします。仮に、その様な状態が永く続いたとしても、将来に対する悲観的な見方に支配され自死したという事であれば、死後にその償いをしなければならなくなるでしょう。
それに対して、限界までその様な状態を耐え忍び、それでも災悪を避ける事のできない場合、そして、屈する事により、社会に対して否定的な影響力を行使する側に回ることがわかっている様な場合においては、自死という行為は許容されるのではないでしょうか。
これらの事については、私自身、将来に何が待ち受けているのかわからないのですから、日頃からの修養を怠らないと共に、心身を清浄にしておく事が肝要であると云えましょう。

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