物理的な意味において、私たちの将来が絶望的なものである、という見方があります。その様な事態は回避すべきものである一方、将来的に、タビネズミの集団自殺を複雑化させたような絶望的な事態が、私たちを襲う可能性が皆無であるとは云えません。
ところで、"私たち"と十把一絡げにしてみても、人間の品性というものは十人十色です。タビネズミが、本能的な動物であり、個体としての独自性に乏しい様に見えるのに対して、人間の独自性は、豊かである様に見えます。
ところで、"私たち"と十把一絡げにしてみても、人間の品性というものは十人十色です。タビネズミが、本能的な動物であり、個体としての独自性に乏しい様に見えるのに対して、人間の独自性は、豊かである様に見えます。
それは、一面においては、タビネズミの霊が種の単位で存在しているのに対して、人間の霊は、その個体毎の単位で存在しているからなのではないでしょうか。
そして、その事は、タビネズミが本能のみに衝き動かされている動物であり、人間は、それに加えて理性というものを有している動物であることと、関係している様に見えます。
理性を有しているが故に、人間は、考えるという事ができるのですし、原始的な生活から抜け出すことができました。そして、修養を積み重ねることにより、自らの内面を鍛え上げることさえもできる状態にあるのです。
つまり、文明が築き上げられたのも、世に聖人や賢者と呼ばれる人々が現れたのも、人が理性を有しているが故である、という事が云えます。
それでは、本能に加えて理性を有している私たちの生き様は、例外なく、タビネズミのそれよりも優れたものであると云えるのでしょうか。
私は、一概に、そうとは云い切れないのではないかと感じています。人間には自由意思が与えられており、理性的な行動を取る事も、本能的な行動を取る事も、己の選択次第だからです。
つまり、タビネズミは本能のみに衝き動かされているが故に、個体としての罪を犯すことが無く、また、品位において個体間の差違がないのに対し、私たちは、与えられた恩恵を充分に行使して、聖人や賢者に近い境地に至ることもできれば、罪を犯したり、堕落し、醜悪な存在に成り下がることもできるのです。果たして、堕落し切った人間の生き様は、タビネズミのそれよりも望ましいものと云えるのでしょうか。
話を元に戻しましょう。集団自殺が起こると仮定した場合についてです。
私は、その様な局面においては、堕落した人間は、タビネズミに劣る様な醜悪な生き様を見せる可能性があると考えています。それは、スウェデンボルグの著書に記述されているアンティディルヴィアンの様な人々の事なのですが、この様な人々は、与えられている恩恵について誤った用い方をしているという意味において、罪深い人々であると云えるでしょう。
一方で、与えられている恩恵について、誤りのない用い方をしている人々、つまり、正しい道を歩んでいる人々は、このような局面においても悲観的になる必要はない、と私は考えています。
この様な局面は、人間の、種としての罪の精算の意味を有しているのであり、それ故、正しい道を歩んでいる者も、その一員として死するのですが、その様なことは心配に及ばないのです。なぜならば、死して後も同じ道を歩み続ければよいからです。
それは、肉体の有無と関わりなく、私たちの魂は永遠に存在し続けるからです。
それ故、厳しい環境は、自らの内面を洗練させる機会にこそなれ、その事に対して絶望したり、悲観的になる必要は無いという事が云えるのではないでしょうか。
そして、その事は、タビネズミが本能のみに衝き動かされている動物であり、人間は、それに加えて理性というものを有している動物であることと、関係している様に見えます。
理性を有しているが故に、人間は、考えるという事ができるのですし、原始的な生活から抜け出すことができました。そして、修養を積み重ねることにより、自らの内面を鍛え上げることさえもできる状態にあるのです。
つまり、文明が築き上げられたのも、世に聖人や賢者と呼ばれる人々が現れたのも、人が理性を有しているが故である、という事が云えます。
それでは、本能に加えて理性を有している私たちの生き様は、例外なく、タビネズミのそれよりも優れたものであると云えるのでしょうか。
私は、一概に、そうとは云い切れないのではないかと感じています。人間には自由意思が与えられており、理性的な行動を取る事も、本能的な行動を取る事も、己の選択次第だからです。
つまり、タビネズミは本能のみに衝き動かされているが故に、個体としての罪を犯すことが無く、また、品位において個体間の差違がないのに対し、私たちは、与えられた恩恵を充分に行使して、聖人や賢者に近い境地に至ることもできれば、罪を犯したり、堕落し、醜悪な存在に成り下がることもできるのです。果たして、堕落し切った人間の生き様は、タビネズミのそれよりも望ましいものと云えるのでしょうか。
話を元に戻しましょう。集団自殺が起こると仮定した場合についてです。
私は、その様な局面においては、堕落した人間は、タビネズミに劣る様な醜悪な生き様を見せる可能性があると考えています。それは、スウェデンボルグの著書に記述されているアンティディルヴィアンの様な人々の事なのですが、この様な人々は、与えられている恩恵について誤った用い方をしているという意味において、罪深い人々であると云えるでしょう。
一方で、与えられている恩恵について、誤りのない用い方をしている人々、つまり、正しい道を歩んでいる人々は、このような局面においても悲観的になる必要はない、と私は考えています。
この様な局面は、人間の、種としての罪の精算の意味を有しているのであり、それ故、正しい道を歩んでいる者も、その一員として死するのですが、その様なことは心配に及ばないのです。なぜならば、死して後も同じ道を歩み続ければよいからです。
それは、肉体の有無と関わりなく、私たちの魂は永遠に存在し続けるからです。
それ故、厳しい環境は、自らの内面を洗練させる機会にこそなれ、その事に対して絶望したり、悲観的になる必要は無いという事が云えるのではないでしょうか。

コメントする