第十六通 未熟であるという事について

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 人間は神ではありません。それ故、不完全な存在であると云えます。つまり、人間は、程度の差こそあれ、未熟な面を有しているのです。
 
 日頃から、未熟な面を改める様に努め、高い境地に至った者も、それを改める事無く、低い境涯に留まっている者も、それを有している、という点では一致しています。
 しかし、前者が内面的な美しさを有しているのに対して、後者のそれは、なんと酷い有様でしょうか。私が、善悪二元論的な思考に囚われる事が少なくないのは、或いは、その印象が強く記憶されているからなのかも知れません。
 
 後者は、前者に対して遅れている、という事は云えるでしょう。魂が若いのです。その為、後者は、大体において周囲に最悪を撒き散らしながら成長して行くのであり、それを受け、前者は耐え忍ぶ事になるのですが、同じ様に未熟な者とは、衝突していく事になります。
 
 ところで、その様に、元は未熟であった者も、人生の経験を積む事により、また、優れた人物や書物と出会う事により、遅かれ早かれ、向上していく運命にあるという事が云えます。回り道をしている様に見えても、螺旋階段を登って行く様に、その様になるのです。
 
 それでは、前者は、後者に対して、どの様な関係を築くべきなのでしょうか。
 
 愛情を持って接していくべきだ、という事が云えるでしょう。
 
 それは、彼らを、憎悪や嘲笑の対象として扱うのではなく、かつての自分として扱い、その心的向上を促す様に接していく、という事を意味します。
 
 彼らは、優れた存在に対する、劣った存在ではないのです。私たちの、かつての姿なのです。そして、偉大な先人達は、私たちの未来の姿です。その様であった時期が異なるに過ぎないのです。
 
 私は、あなた様の言葉(シルバーバーチの霊訓シリーズ)に接する事により、その様な事を知る事ができました。

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このページは、Kenji Takahashiが2008年10月 2日 08:00に書いたブログ記事です。

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