第十七通 生と不自由について

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 私たちは、遅かれ早かれ、死する存在です。しかし、今の所は生きています。そして、生きるという事は、云うなれば、不自由との闘いです。
 
 今、この様に机に向かっていてさえも、私は、物への執着の念と闘っています。執着の念は、心の自由を奪い去ります。それ故、それは無くして行くべきものなのですが、頭ではその様に理解していても、本能的な、心の奥底から這い上がって来る様な欲望というものは、容易には取り除く事ができません。
 それは、本能的なものなのであり、私の心中における未熟な部分なのであり、かつての自身なのであり、心的な自由を奪う存在、つまり、煩悩なのだと思います。
 
 私は、今は物的な地上世界で生活しているのだから、一面において、物的な価値観を有しているという事は、自然な事なのであると云えるでしょう。
 
 しかし、その一方で、私は、いずれ死する存在でもあります、早晩、私は肉体を失い、魂だけの存在となるのです。
 
 その様になった際、未だ物への執着の念に囚われた状態であったならば、どうでしょうか。偉大な先人たちは、その様な状態にある者は、死後、低い境涯に留めおかれる、という事を教えてくれています。
 
 そして、実の所、肉体の有無は、心境の高低と関係がないのですから、その様な状態におかれる者は、肉体を有していた頃から、心的にはその様な状態にあったのだという事が云えます。
 
 地上世界において、自らの心が物に囚われているという事を認識せずに生活している者は少なくありませんが、この様な事を認識していながら、考え方や生活を改めないのは、愚かな事なのではないでしょうか。
 
 死すれば、物は無用となる一方で、自らの心は永遠に存在し続けます。それ故、前者と後者のどちらが大切であるかは、自明の理であると云えるでしょう。
 
 私たちは、心だけの存在になった際に、困らない様に、肉体の有る内から、その為の準備を始めるべきなのです。
 
 その為の方法の一つは、自らの心境を低める様な行為を減らし、心境を高める様なそれを増やして行く、という事です。
 
 例えば、人に施した恩恵は、巡りめぐって自らの許に戻って来るのだと云います。それは、仏教において、"善因善果"と教えられていますが、見返りなどは求めずに困っている人を助けてあげる様な人は、心が愛で満たされているのであり、高い心境にあるという事が云えるでしょう。
 
 人間は、いつまでも無知であってはならないのだと思います。無知であったならば、どのような行為が自らの心に影響を及ぼすかがわからないのですし、そもそも、大霊に与えられた恩恵を正しく行使しないという事は、自然の法則に反した事であるからです。
 
 その様な次第で、私たちは、偉大な先人たちから学ぶ事を、そして、考える事を、続けていくべきなのではないでしょうか。

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このページは、Kenji Takahashiが2008年10月 9日 19:00に書いたブログ記事です。

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