初めて隅田川をゆっくり眺めたのは、某予備校の寮に入り、しばらく経った頃でした。
その頃は、一日中机に向かう毎日でしたので、気分転換の為、私は努めて散歩に出かけては、相生橋や中央大橋の上から、隅田川を眺めていました。
その頃は、一日中机に向かう毎日でしたので、気分転換の為、私は努めて散歩に出かけては、相生橋や中央大橋の上から、隅田川を眺めていました。
その川は、雄大で、流れに力強さがあり、自然の力の偉大さ、尊さの様なものを、私に感じさせてくれました。いわば、私は、その川から力を与えられていたのです。そして、その後、成績は驚くほどよくなり、翌春、私は、晴々とした気持ちで寮を去ったのでした
しかし、それからしばらく経ち、久方振りにそこを訪れた際には、また、違った印象を受けたのです。
その時、後に訪れた際には、私は、その川について、雄大であるが、どこかどんよりとしており、暗く、生気が無い様に感じたのでした。そして、その頃の私は、その事について、都内の汚い排水が流れ込んでいる為だろうと解釈し、それ以上は考えませんでした。
しかし、今になって考えてみると、当時の、私の解釈は誤りであった様に感じられます。
初めての、隅田川への訪問と最後のそれとの間には、五から八年位の期間があったと記憶していますが、常識的な見地に立ち考えると、その間に、隅田川の水質が目に見える程変化するという事は、ちょっと考えられないのです。
それでは、何が変わったのでしょうか。
実の所、対象物であるところの川ではなく、対象を観察する主体であるところの、私自身が変化していたのです。具体的には、後に隅田川を訪れた頃、私の心は否定的な傾向を有していたのであり、その影響を受けた事が考えられます。
つまり、心に否定的な傾向のある者は、何かを眺めても、聞いても、読んでも、偏った、否定的な部分を受け取る様になっているのです。これは、心境の高い者が、物事の美しい面、肯定的な部分ばかりを受け取る事とは、反対の傾向である、ということが云えるでしょう。そして、心に否定的な傾向があるという事は、低い境地に縛られている、という事でもあります。
縛られた状態でいるよりは、自由である方がよいでしょう。醜いものに接してばかりいるよりも、美しいものと接した方がよいはずです。
大切な事は、自身の内面が、どのような状態にあるのかを正しく把握することです。そして、その後に、より好ましい状態へ移行する為には、いかなる行動を取る事べきであるのか、それを考えていく必要がある、という事が云えるでしょう。
しかし、それからしばらく経ち、久方振りにそこを訪れた際には、また、違った印象を受けたのです。
その時、後に訪れた際には、私は、その川について、雄大であるが、どこかどんよりとしており、暗く、生気が無い様に感じたのでした。そして、その頃の私は、その事について、都内の汚い排水が流れ込んでいる為だろうと解釈し、それ以上は考えませんでした。
しかし、今になって考えてみると、当時の、私の解釈は誤りであった様に感じられます。
初めての、隅田川への訪問と最後のそれとの間には、五から八年位の期間があったと記憶していますが、常識的な見地に立ち考えると、その間に、隅田川の水質が目に見える程変化するという事は、ちょっと考えられないのです。
それでは、何が変わったのでしょうか。
実の所、対象物であるところの川ではなく、対象を観察する主体であるところの、私自身が変化していたのです。具体的には、後に隅田川を訪れた頃、私の心は否定的な傾向を有していたのであり、その影響を受けた事が考えられます。
つまり、心に否定的な傾向のある者は、何かを眺めても、聞いても、読んでも、偏った、否定的な部分を受け取る様になっているのです。これは、心境の高い者が、物事の美しい面、肯定的な部分ばかりを受け取る事とは、反対の傾向である、ということが云えるでしょう。そして、心に否定的な傾向があるという事は、低い境地に縛られている、という事でもあります。
縛られた状態でいるよりは、自由である方がよいでしょう。醜いものに接してばかりいるよりも、美しいものと接した方がよいはずです。
大切な事は、自身の内面が、どのような状態にあるのかを正しく把握することです。そして、その後に、より好ましい状態へ移行する為には、いかなる行動を取る事べきであるのか、それを考えていく必要がある、という事が云えるでしょう。

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