第十九通 美しき事について

| | コメント(0)
 人類は、富める人々と、貧しき人々に二分されています。それは、国内においてその様なのですし、また、世界においても、そうなのです。
 
 人の出生には、その者の、生前の因果が関係するのだと云われますが、この様な現状を目にして、私は、自らが富める国に生を享けて幸運であったと、そうして済ます事はできません。
 
 それは、その様な状態が醜悪なものである様に感じるからです。
 例えば、心の病気に罹っている人がいるとします。因果の道理の面から考えれば、心的な病の原因は、前世、あるいは、今生における悪業に存する可能性が高い、という事がわかります。
 
 しかし、仮に原因がその様なものであるにしても、彼を前にして、侮蔑的な態度など取ってはならぬ事は、当然の理であると云えるでしょう。
 
 なぜならば、彼らは、その様な状態に身を落とす事により罪の精算をしたのであり、また、現状として、社会における弱者として存在しているからです。
 
 それ故、理性を有する人間であるならば、その様な人々に対して、愛情を持って接して行かねばなりません。そして、逆説的に表現すると、その様な人々に対して攻撃的である者は、実の所、そのもの自身が病的な傾向を、その様な問題を抱えている者なのです。
 
 私は、この様な構図は、富める者と貧しき、飢える者との関係においても、同様であると考えています。
 
 富める国に住む私たちが、国内外において、貧しき人々、飢える人々が存在するのに、それを対岸の火事であると見做して、見殺しにし、自らは、自身の物的な富に執着する様な事があるならば、それは、醜悪な状態なのではないでしょうか。
 
 そして、病的な者には愛情を持って接する事ができるのに、その様な人々に対しては同様の事ができないという事があるならば、それは、道理に合わない事です。
 
 私たちは富める国に生を享けましたが、それは、一面において幸福な事であると共に、また、一面において、不幸な事です。なぜならば、物的に富める者は心的に貧困である場合が多いからであり、その逆も、また然りであるからです。
 
 それでは、物とは、心とは、何なのでしょうか。
 
 物とは、地上世界にのみ存在するものであり、それは、金銭なのであり、衣服であり、建造物であり、食べ物であり、私たちの肉体です。
 
 心とは、私たち自身、その本質なのであり、永遠に存在し続けるものです。
 
 この様な次第ですので、どちらが大切であるかについては、自明の理であるという事が云えるでしょう。
 
 私たちは、遅かれ早かれ、死する存在なのですから、必要以上に富を蓄える様な事は、愚かな行為です。そして、私たちの内面性というものは永遠に存在し続けるものであるのに、死する迄に、自身の内面を好ましい状態に整えておかないならば、それも、愚かな事なのではないでしょうか。
 
 そして、私たちが、生活を送るに必要な分以上の富を貧しき人々に分配するならば、それは、いわば心的な富を蓄える行為なのであり、自身の内面を好ましい状態にするものなのです。つまり、いつくしみの心を発揮したのであり、その為に、自らが温かい心情のベールで包まれたと表現する事ができるでしょう。
 
 私たち皆がこの様な事を理解し、物的な貧富の格差が無くなっていくならば、それは、美しき事です。

コメントする

このブログ記事について

このページは、Kenji Takahashiが2008年10月26日 07:00に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「第十八通 隅田川について」です。

次のブログ記事は「第二十通 都会と田舎について」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。