第二十九通 愛について

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 私は、問題のある家庭に生を享けました。その為、長い間、本当の愛というものを知らなかったのだと思います。そして、そうであったが故に、周囲との間に、不調和を生じさせて来たのではないでしょうか。つまり、私は、友を裏切ったり、傷付けたりしながら、成長して来たのです。
 それでは、その様な、私の内面的な傾向は、既に過ぎ去ったものなのでしょうか。
 
 決してその様な事はない、という事が云えるでしょう。今、この様に机に向かっていても、私は、自らの心中に、その様な傾向が燻っている事を感じることができます。
 
 酷薄な傾向、利己的な考え方、怒りの念。少し油断をしていると、この様な、否定的な傾向を有する想念が、私の心を囚えようとするのです。
 
 それは、なぜなのでしょうか。
 
 私は、その様であるのとは、いわば、愛の思念を載せる、器が小さいが故ではないかと感じています。器が小さいのは、これ迄、それを発揮する機会が少なかったからでしょう。そして、それが小さいが故に、私は、自らの内面に目を向けた際に、空疎であるという印象を受けざるを得なかったのです。
 
 それ故、私は、愛の思念を発揮する機会を見出すべきなのですし、その為に努力すべきだという事が云えるでしょう。困っている人は、助けなければなりません。よき友を見付け、心を通わせ、助け合わなければなりません。愛しい人ができたならば、守ってあげ、支え合うべきなのです。
 
 机に向かう事により、私の心は、とても好ましい影響を受けています。それ故、私は、これからもそうし続ける事でしょう。しかし、その一方で、他者との交流を軽んじてはならないのだと思います。なぜならば、私たちは、書物に真剣に向き合う事により心的に向上する事ができる様に、他者と真剣に向き合う事によっても、向上する事ができるからです。
 
 本来、人間には、互いに助け合うという性質が備わっているのだといいます。ところが、現代における異常な環境は、その様な性質を発揮する機会を、失わせてしまっているのです。しかし、また、誤りであったことが明白な、現代的価値観に従う必要なぞ、少しもないという事が云えるでしょう。
 
 イエスは、自らが欲することを他者に施せ、という意味の教えを残されました。私は、その様な、利他的・博愛的な行為こそ、自然の法則に従ったそれなのだと思います。そして、実の所、その様な行為を当然の様に実践している人々や、その様な人々が住む世界がどこか高い所に存在しているのであり、私に、それを認識する力がないだけなのではないでしょうか。
 
 この様に考えて行くと、困っている人を助ける様な、他的・博愛的な行為を実践する事は、利至極当然の事である様に感じられるのです。

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このページは、Kenji Takahashiが2009年2月11日 08:30に書いたブログ記事です。

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