第三十通 不善の行為について

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 これ迄、私は、表面的には仏教徒でありながら、その教えについては、ほとんど何も知らなかったのだと思います。事実、道元禅師の説示の記録である『正法眼蔵随聞記』に親しんだり、仏教における不善の行為について認識し始めたのは、最近の事なのです。
 私は、幻聴が生じる原因とその治療方法について調べている内に、不善の行為の事を知りました。それは、チベット医学に関する本の中に記されていたのです。その教える所は明快であり、つまりは、因果の道理の働きに依り、善行は心身の健康につながる一方、悪行は、心身の不健康につながるというものです。
 
 この様な教えが、現代を生きる日本人にとりて、にわかには信じ難いものである事は想像に難くありませんが、それは、日本人の多くが仏教徒である反面、その教えについて無知だからです。いわば、日本人は、物的な富を手に入れた代わりに、心的な富を失ってしまったのであり、その過程において、神仏に対する信仰心も失われていったのではないでしょうか。他方、チベットやモンゴル、ブータンの様な、チベット仏教を信仰する国の人々は、物的な富を手に入れていない一方、心的な富を、そして、その様な教えを失ってはいません。
 
 それでは、不善の行為とは、具体的に、いかなる行為の事を指すのでしょうか。
 
 それは、肉体における、殺生、盗み、邪淫です。
 
 前の二つについては、それを犯したならば刑法により罰せられるのであり、また、犯罪であると認知されていますので、それが不善の行為であると認識する事は難しくないでしょう。ここで留意しておく事があるとすれば、この様な不善の行為を犯しておきながら、上手く刑法の網を潜り抜ける者についてです。その様な者は、一見、犯した罪の罰をまぬがれたかの様に見えても、実際には、その様な偶然は決して生じ得ないという事が云えます。なぜならば、殺生や盗みの様な不善の行為を犯したならば、その犯した罪が魂に刻まれ、因果の道理が働くのであり、それ故、今生か来世か、いずれにしても、苦しみを伴う形で、その行為の精算をさせられるからです。それは、原因に対する結果なのであり、また、作用に対する反作用と表現する事もできます。
 
 ところで、それを犯している日本人が少なくなく、刑法で罰せられない点を含め、邪淫は、注目に値するという事が云えるでしょう。邪淫とは、夫婦間以外のそれを含む、人の道に外れた性行為の事です。この様な行為については、刑法で罰せられないのだから、不善ではないと主張する者が少なくないでしょう。しかし、実の所、邪淫を犯す者は、一方向的に、心的に堕落して行くのであり、また、エイズの様な性病を蔓延させる媒介としての役割を果たしているのですから、その様な者が、好ましくない影響力の許にあるという事は明白なのです。
 
 次に、それは、心における、貪り、怒り、邪見です。
 
 貪りとは、底知れぬ欲望に囚われる事です。物的な富への欲望というものは、一面において、自然なものなのだと思います。しかし、また、私たちは思い出さなければならないでしょう。相対的に、世界で最も富んでいた頃、私たちは、充足感を得る事もなく、更なる富を欲していたのだという事を。それは、元来、幸福な状態を実現する為に物的な富を求めていたところが、戦後期から現代にまで至る過程において、それを増大させる為に求める様になったからです。そして、この様な事は、物的な欲望だけでなく、色欲の様な、心的な欲望にも当て嵌る事なのだと思います。私たちは、足事を知らなければならないでしょう。
 
 怒りとは、感情の発散であり、また、否定的な想念を発する行為であるという事が云えるでしょう。例えば、他者に対して怒りの念を抱き続ける様な事は、その相手を呪う行為に近いのであるし、作用に対する反作用が生じるという面からも、避けるべきであるという事がわかります。それ故、ストレスなどを原因として感情の発散の必要に迫られたならば、怒りを伴わない行為で発散させるべきでしょう。
 
 邪見とは、偏ったものの見方をする事です。それに囚われている者としては、カルト宗教団体の信者を想像すれば分かり易いのですが、実の所、私たちは皆、多かれ少なかれ、それに囚われているという事が云えるでしょう。そもそも、日本が経済大国として台頭する過程で形成された価値観は物に偏ったものだったのですし、無知である事、そして、心の弱さを原因として、私たちは、少なからず偏ったものの見方をしているのです。しかし、認識の誤りが、思考、行動、言葉における間違いを引き起こす事を考えたならば、公平なものの見方をする事を心掛けるべきである事は自明の理であるという事が云えるでしょう。
 
 最後に、言葉における不善の行為について書きます。それは、嘘、悪口、戯れ言、二枚舌です。
 
 嘘や悪口、二枚舌については、その様な行為は避けるべきであると理解する事は、さほどには難しくないでしょう。嘘とは、他者に対して、事実を曲げてこしらえたり、本当でない事柄を言葉で伝える行為です。この行為については、邪見による、つまり、自らの認識に誤りがある場合と、自らは正しい認識を得ている場合に分けられる様に見えます。前者は、誤った事を他者に伝えているのであり、本人に悪意はなくとも、邪見という不善の行為が原因となり、好ましくない結果が生じているのです。それに対して、後者は、意識して他者を騙しているのであり、それ故、前者よりも、より好ましくない行為だと云えるでしょう。
 
 悪口については、それが、悪意に基づいているものであれ、怒りによるそれであれ、それは好ましくない傾向を有する思念なのですから、その様な思念を、言葉に乗せて表面化させる事は避けるべきである事がわかります。その様な行為は、行為者の未熟な内面の反映なのですから、悪口を発する者は、自らの愚かさを宣伝している様なものなのです。それ故、悪口を発する様な者は、自らの内面に目を向け、より好ましい状態を目指し始めるべきでしょう。
 
 二枚舌とは、前と食い違うことを平気で言う行為です。現代においては、発言や考え、立場を、ころころと変える者が珍しくない様です。しかし、私は、その様な者を信用する事はできません。そうすると、その様な者と同じ状態に自らをおく事は、避けるべきであるという事がわかります。二枚舌は言葉における不善の行為ですが、私たちは、発言、行動、思想において、首尾一貫しているべきなのです。なぜならば、その様な状態において初めて信用が生じ得るのであるし、それらが首尾一貫している事、それらがより洗練するように努める事は、自らを好ましい状態へと導くからです。
 
 戯れ言とは、ふざけて言う言葉、つまり、冗談です。機知に富む冗談は場を和ませますが、悪意のある冗談は避けるべきでしょう。善因は善果をもたらす一方、悪因は悪果をもたらすからです。
 
 私は、あなた様の言葉にふれ、初めて、自らの内面に目を向ける事の大切さに気付かされたのだと思います。神・自然に畏敬の念を抱き、その法則に従う事は、困っている人を助ける事は、隣人を愛する事は、とても大切な事です。そして、それから、私は、漠然と、自らの内面を鍛えなければならないと意識し始めたのでした。しかし、また、かつて、私には、いかなる事であれば為してよく、反対に、いかなる事は為してはならないのか、その様な、行為についての、具体的な事がわからない時期がありました。その様であった或る日に、求めるものを与えられる様に、私は、"不善の行為"についての知識を与えられたのです。

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このページは、Kenji Takahashiが2009年2月25日 08:10に書いたブログ記事です。

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