第三十一通 幸福について

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 現代人というものは、インディアンよりも幸福な状態にあるのでしょうか。
 インディアンと現代人とは、異なる道を歩んで来たのだと思います。前者は、神・自然と共に生きて来たのであり、後者は、歩みを進めるに連れて、徐々に、その許から離れて来たのです。

 それでは、その様な両者の選択は、いかなる形で花開いたのでしょうか。その事については、両者の社会及び個人の状態を比較する事により推し量る事ができる様に感じられます。
 
 社会という面において、インディアンのそれは素朴なものだったのであり、一方、現代におけるそれは、前者における社会と比し、遙かに高度化されているという事が云えるでしょう。
 
 それは、両者の選択の帰結なのだと思います。外面的には、前者は未熟なのであり、それに対し、後者は成熟している様に見えます。実際に、インディアンは、弓や槍を使用して野生の動物を狩ったり、木の実を採集して生を営んでいたのですし、それに対して、現代人は、パソコンの画面に向かって仕事をし、自動車やテレビの様な、利器に取り囲まれて生活しているのですから。
 
 それでは、現代人は、インディアンと比し、幸福であると云えるのでしょうか。
 
 物的に富んでいる、という事は云えるでしょう。しかし、その社会においては、貧困、富の格差、環境破壊、戦争、犯罪、虐待などの問題が生じているのであり、その外面的な反映とは裏腹に、内面的には火の車なのであり、いつ機能不全に陥っても不思議はない状態であると云えるでしょう。一方、インディアンの社会においては、本当の意味での平等が実現されていたのであり、弱者は自然に救済されていたのです。
 
 インディアンは、心身共に健康だったのでした。それは、彼らが神・自然と共に生きたからであり、また、現代人よりも野性的な生き方をしたからです。それに対して、現代人の心身は、多かれ少なかれ病んでいます。便利な移動手段が運動の機会を奪い、科学技術のもたらした通信手段が顔を合わせる機会を奪い、人工の構造物が自然と親しむ機会を奪い、効率化が心身を休める機会を奪い、溢れる情報が心の平安を奪い、多過ぎる人口が必要な空間を奪ったのです。
 
 無知であるという事は、幸福でもあり、また、不幸でもあるのだと思います。それに対して、知るという事も、また、然りではないでしょうか。それは、権利には義務が伴うのであり、知る事には苦しみが伴うからです。しかし、その苦しみの代価として手にいれたものが、生活必需品に対する贅沢品の様なもの、つまり、本当に大切ではないものだったとしたら、どうでしょうか。
 
 現代人は、インディアンよりも幸福な状態であると云えるのでしょうか。

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このページは、Kenji Takahashiが2009年3月11日 07:20に書いたブログ記事です。

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