第三十二通 機械について

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 機械というものは、厄介な代物なのだと思います。なにしろ、私は、こうして机に向かっている現在においてさえ、代表的なそれである所のパソコンに向かいたいという欲求を感じているのです。
 霊や自然の世界について精通している人々は、機械の事を悪魔だと表現します。取り分け、産業革命の頃から、機械が人類に対して大きな影響を与え始めたのであり、その事と同時並行的に、人類が神・自然の許から乖離して行ったという経緯について顧みるならば、その様な表現が適切であるという事がわかるでしょう。
 
 事実、その技術の発展は、私たちの対人殺傷能力を向上させて来たのであり、現代に至り、私たちは、機械を介して、自分たち、人間という種を滅亡させられるだけの力を有しています。ところが、古の時代においては、人々は剣・盾・弓を用いて戦争をしていたのであり、殺傷能力もそれに応じたものだったのです。
 
 この様な、現代における強力な殺傷能力について、人類がこれをコントロールしていけるという確証はありません。確かに、原子爆弾が開発されて後、現在迄の六十余年、人類は滅亡していないのですし、破滅的な事態が生じずに現代文明が存続している間は、そのコントロールに成功している、という事が云えるでしょう。しかし、また、私たちが、自分にその能力がない事に気付くのは、肉体を失った後になる可能性が高いのではないでしょうか。
 
 第二に、それは、自然を破壊する為に用いられて来たのであり、近年、その傾向は益々強くなって来ているという事が云えるでしょう。
 
 古において、人類は、自然と共生する事ができていたのだと思います。つまり、彼らは、野生の動物を狩り、木の実をもぎ生活していたのであり、自らも野性的で、生態系の枠内に収まっていたのであり、自然に育まれていたのです。その後、人類は、原始的な道具を発明し、田畑を耕したり、森林を伐採し始めたのですが、この様な生活の移行が、神・自然と人間との関係にいかなる変化をもたらしたかについて、私は、上手に説明する事ができません。
 
 しかし、現代に至り、私たち人類が、地球という生命を蝕む黴菌の様な役回りを果たしている事については、議論の余地はないでしょう。人類の継続している破壊行為により、地球は傷付き、生態系は狂い、多くの生物に絶滅の危機が迫っています。そして、その様な愚行は、産業機械、航空機、船舶、自動車の様な悪魔、化石燃料を食らい有毒な物質を吐き出す彼らによって犯されているのです。
 
 第三に、現代に至り、それは、人類の魂にさえも食らい付き始めたという事が云えるでしょう。
 
 例えば、コンピューターの普及が挙げられます。それは、企業活動においては、それを合理化させた一方、労働者の心的な余裕を奪い去ったという事が云えるでしょう。なぜならば、それが導入された事により、労働者は、紙に向かう代わりにコンピューターに向かわざるを得なくなったのですが、実の所、前者が数千年の時の試練を潜り抜けてきた道具であるのに対し、後者は、たかだか普及して十数年の代物なのであり、それが労働者の代わりに作業を行ってくれる便利な面がもたらされた一方、労働者が紙に対していた頃には生じ得なかった、過大な精神的負荷を背負わされる様になったからです。企業という組織の活動が合理化されたとしても、それを構成している個人が不健康になっては仕様がないでしょう。
 
 ところで、コンピューターの普及は、いわばファックスにおけるそれの延長線上にあるという事が云えますが、後者が普及した事により、何か確かでない大切なものを奪われたと感じた人は少なくないでしょう。それは、心のゆとりなのであり、近年、その重要性が益々高まっているものです。
 
 しかし、私は、その普及は第一段階に位置するのだと思います。そして、第二段階に位置するものは、携帯電話とインターネットです。私は、これらの機械について、自傷兵器であるとさえ感じています。その事について書きましょう。
 
 携帯電話とインターネットは、人間に対し、それぞれが害を及ぼします。前者は、それが発する強力な電磁波が脳を傷付けるのであるし、後者については、洪水の様な情報がストレス過多をもたらすのです。そして、両者は、その低俗な中身により、私たちの倫理・道徳観を低下させるという性質を有してさえいます。
 
 この様な悪魔の働きを原因とする心の病気は、近年、一方向的に拡大しているのであり、当人が、知識が不足しているが故に、無意識・無自覚にその様な状態に陥っている事から、これらの機械を自傷兵器と表現する事は妥当なのではないでしょうか。現代において、携帯とインターネットによりもたらされる不健康、それに対する依存の問題は、深刻なものなのです。
 
 だが、今回は、もう一歩踏み込んで、更に深刻な問題について書きたいと思います。
 
 偉大なる先人たちは、都市の危険性を認識していました。それは、個人の集合体である都市というものは、まるで一つの意思を有する巨人の様な振舞をするというものです。そして、その様な巨人の性質は、大体において凶暴なのです。
 
 私は、現代に至り、携帯電話とインターネットにも巨人が現れたのだと感じています。彼らは、利用者の魂を食らい、一つの意思を有する巨大な存在のように振舞い始めてはいないでしょうか。そして、私たちを操り始めてさえいないでしょうか。
 
 実の所、この様な事は、霊的な見地に基づいた説明が可能なのです。インターネットはケーブルと無線で、携帯は電磁波で、それぞれ、全ての利用者がつながっているのであり、それ故、霊がそのネットワークを行き来する事により、利用者の魂の一部を奪い去り、その奪った分で、集合意識的な巨人を生み出す事ができるのではないでしょうか。携帯電話やインターネットを住み処とする巨人を、です。
 
 私は、現代人に死者の様な者が増え、また、価値観に画一化の傾向が生じているのは、少なくとも、この事が一因であると考えています。なお、パソコンを介したインターネットと携帯という事であれば、常につながっているだけに、後者の方が状況は深刻であるという事が云えるのではないでしょうか。

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このページは、Kenji Takahashiが2009年3月21日 07:20に書いたブログ記事です。

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