現在の学校教育は、その内容に偏りがあるという事が云えるでしょう。なぜならば、それは、主として受験競争の為のそれなのであり、生徒の多くは、必要以上の詰め込み教育を受けた挙げ句、やがて、そのほとんどを忘れてしまうからです。大人になっても廃れないのは、読み書き計算と、社会・理科における基礎的な教育くらいなのではないでしょうか。
つまり、現在の教育には無駄が多いのですし、現代における心の問題を顧みるならば、教育という面からの子供の心に対する配慮が不十分である様に見えるのです。その事については、学校が受験予備校化している、と表現する事もできるでしょう。
しかし、本来、学校教育とは、その様なものではないのだと思います。子供は、未熟な状態にあるのであり、また、発展する途上にあるのですから、上等な学校に入る事ではなく、子供の心身を鍛え、その資質を育て、一人の、魅力ある人間として世に送り出す事を、その目的とするべきなのです。
それ故、現在の教育内容には、メスを入れる必要があるという事が云えるでしょう。将来的に有用でない、いわば受験の為の授業を減らし、その分を、生涯に渡り、子供に対して好ましい影響を及ぼす教育で穴埋めするのです。
それは、具体的には、坐禅であり、自彊術体操であり、創作・読書です。
小中高校においては、第一限目には全ての生徒が体育館に集合し、お坊さんの説教を聞き、それから坐禅を組むのがよいでしょう。その様な教育は、子供の心を安定させる上、一生涯、その支えとなるのです。
そして、昼休みの後などに二十分程度の時間を捻出し、毎日、自彊術体操を行うとよいでしょう。その様な教育は、子供の身体の状態を調えてくれます。更に、この体操と坐禅について、小中高の学校教育で習慣化させる事により、子供たちは、大人になっても自らの心身の状態をコントロールする術を身に付ける事ができるのです。
創作と読書についても、毎日行うのがよいでしょう。前者は、オリジナリティーのある発想をする力を育み、また、内に秘めたる資質を刺激する行為なのですし、一方、後者は、その習慣の有無は、偉大なる先人たちから学ぶ機会の有無を意味するからです。
創作とは、思索を伴う行為です。考える事には、また、苦しみが伴うかも知れません。しかし、その様な苦しみには見返りがあるのです。私たちは、創作を行なう事により、思索する事により、精神的に向上して行く事ができます。
それに対して、読書とは、先人の足跡から学ぶという行為です。つまり、私たちは、書物を介した形で、偉大なる先人たちから、その思索から学ぶ事ができるのであり、また、その様な方法により、賢くなって行く事ができるのです。しかし、読書のもたらす恩恵が計り知れないものである一方、その行為において、オリジナリティーのある発想があまり育たない事も、また事実です。それ故、その教育は創作と並行して行われるべきでしょう。
読書の習慣については、それが無ければ、何歳になっても読む本の数は零です。それに対して、一カ月に三冊の本を読むならば、一年間で三十六冊、十年間で三百六十冊の本を読む計算になります。ところが、その習慣がなければ、十年経っても、その数はやはり零なのです。
この様な比較は極端であり、また、本から受け取る恩恵も、その読んだ冊数だけで推し量る事はできないでしょう。しかし、読書の習慣の有無が、非常に貴重な恩恵に浴する機会の有無を意味している事も、また、然りなのです。
しかし、本来、学校教育とは、その様なものではないのだと思います。子供は、未熟な状態にあるのであり、また、発展する途上にあるのですから、上等な学校に入る事ではなく、子供の心身を鍛え、その資質を育て、一人の、魅力ある人間として世に送り出す事を、その目的とするべきなのです。
それ故、現在の教育内容には、メスを入れる必要があるという事が云えるでしょう。将来的に有用でない、いわば受験の為の授業を減らし、その分を、生涯に渡り、子供に対して好ましい影響を及ぼす教育で穴埋めするのです。
それは、具体的には、坐禅であり、自彊術体操であり、創作・読書です。
小中高校においては、第一限目には全ての生徒が体育館に集合し、お坊さんの説教を聞き、それから坐禅を組むのがよいでしょう。その様な教育は、子供の心を安定させる上、一生涯、その支えとなるのです。
そして、昼休みの後などに二十分程度の時間を捻出し、毎日、自彊術体操を行うとよいでしょう。その様な教育は、子供の身体の状態を調えてくれます。更に、この体操と坐禅について、小中高の学校教育で習慣化させる事により、子供たちは、大人になっても自らの心身の状態をコントロールする術を身に付ける事ができるのです。
創作と読書についても、毎日行うのがよいでしょう。前者は、オリジナリティーのある発想をする力を育み、また、内に秘めたる資質を刺激する行為なのですし、一方、後者は、その習慣の有無は、偉大なる先人たちから学ぶ機会の有無を意味するからです。
創作とは、思索を伴う行為です。考える事には、また、苦しみが伴うかも知れません。しかし、その様な苦しみには見返りがあるのです。私たちは、創作を行なう事により、思索する事により、精神的に向上して行く事ができます。
それに対して、読書とは、先人の足跡から学ぶという行為です。つまり、私たちは、書物を介した形で、偉大なる先人たちから、その思索から学ぶ事ができるのであり、また、その様な方法により、賢くなって行く事ができるのです。しかし、読書のもたらす恩恵が計り知れないものである一方、その行為において、オリジナリティーのある発想があまり育たない事も、また事実です。それ故、その教育は創作と並行して行われるべきでしょう。
読書の習慣については、それが無ければ、何歳になっても読む本の数は零です。それに対して、一カ月に三冊の本を読むならば、一年間で三十六冊、十年間で三百六十冊の本を読む計算になります。ところが、その習慣がなければ、十年経っても、その数はやはり零なのです。
この様な比較は極端であり、また、本から受け取る恩恵も、その読んだ冊数だけで推し量る事はできないでしょう。しかし、読書の習慣の有無が、非常に貴重な恩恵に浴する機会の有無を意味している事も、また、然りなのです。

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