投機をめぐる問答

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 我が国の経済は停滞している。それ故、このままでは貧しくなって行くばかりである。だが、国外に目を向ければ、高成長を遂げている新興国がある。貧しくなる事を避ける為に、その様な国の成長に便乗するのは当然の事だ。
 その様な思惑があるならば、彼の地で事業を興すがよかろう。私の見る所、投機という行為は、それ自体において避けなければならないそれである。なぜならば、それは、富の公平な分配を妨げる、そして逆説的には、他者から富を搾取する行為であるからだ。
 
 貴様は現実がわかっていない。この世界では、そんな理屈は通用しないのだ。かつては繁栄していた所が、年々、蝕まれる様に零落して行く国の人間の気持ちが、お前にわかるのか。誰もが、他者を蹴り落としてでも、自らは富を手に入れたいと願っている。そもそも、我々は生きなければならん。然るに、生きる為には富が必要だ。戦後の混乱期に、闇米が問題になった事がある。当時、どの様な人間が生き残り、また、どの様な人間が死んだのか。生きるとは罪を伴う行為である。
 
 私たちは、貧しくなる事を受け入れなければならないだろう。過去において、そして、現代においてさえ、世界には、私たちより貧しい人々が沢山存在している。私たちは、今まで、その事に目を向けて来ただろうか。私たちが抱えている物的な問題は、その事と比し、どれ程に深刻なのだろうか。富者は貧者に対して、その富を分け与えなければならない。そして、労働とは、人として成長して行く為の貴重な機会なのであり、それを、物的な富に囚われる原因としてはならないのだ。
 
 そんな話は綺麗事だ。事実、これ迄に、その様な清浄な考え方をした者は、社会から放逐されて来たのだ。それは、社会において、私の様な考え方が主流であるからである。清らかでいたいならば、隠遁して、草でも食べて生きて行けばよいだろう。その様な人間は、沖縄人が東京に順応する事が難しい様に、社会に居場所を見付ける事が難しいのだから。
 
 生と真剣に向き合っているならば、何とかやっていけるものである。しかし、あるいは死んでしまうかも知れない。それは、仕方がないのだ。私たちの本質は心なのだから、その様な原因で死する事を少しも恐れる必要はないのである。そして、むしろ恐れなければならないのは、自らの行為を正当化する理屈を見付けて来る等して、不善の行為に手を染める事なのだ。人は、何を為したかによってその値打ちが決まるのであり、為した行為を正当化できるか否かに依るのではない。死した後、私たちは心だけの存在となるのだから、その事を念頭に置き、生きて行くべきである。だから、投機の様な事は決して為してはならない。新興国の恩恵に預かりたければ、その国で事業を始めるのがよいだろう。

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このページは、Kenji Takahashiが2009年5月14日 09:00に書いたブログ記事です。

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