第三十七通 童心について

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 あなた様は、神に通じた状態とは、子供の様な心持ちでいるそれなのだと説かれています(『シルバー・バーチの霊訓』シリーズにおいて)。この事については、子供の様な純粋さや素直さというものは、神に由来する性質であると表現する事もできるのでしょう。
 一方、不純であったり、ひねくれた状態にある者は、神よりは、むしろ煩悩と縁を結んでいる様に見えます。なぜならば、それは、不善の行為と同じ方を向いた、否定的な傾向を有する状態だからです。
 
 大方の人間は、幼い頃は神に通じている事がわかります。それは、幼子は、まだ地上世界における経験を蓄積しておらず、物ではなく心の世界に生きているからです。ところが、また、多くの人間は、成長するに従い、神の許を離れて行く様です。それは、加齢に伴い、必然的に外との関わりは増えて行くのですが、現代における社会は不善で満ちており、大抵は、その影響を免れる事ができないからです。すなわち、現代においては、両親、友達、教育、本、テレビ、テレビゲーム等、子供は、様々な要素から影響を受けるのですが、大抵のケースにおいては、物に偏っていたり、商業主義の産物に偏った影響を強く受けるのであり、その為に、心の目が曇らされて行くのです。
 
 ところで、現代人の多くがその様な道を歩むのに対し、かつてのインディアンは、生涯、神と共に在ったのだという事を私は知っています(『レッドマンのこころ』より)。それでは、現代においては、いかなる要素が不足し、また、過剰なのでしょうか。
 
 私には、インディアンの社会に比し、現代のそれに不足している要素は自然環境なのであり、また、過剰なのは商業主義による産物である様に見えます。そして、その様であるが故に、現代においては、幼子が、成長と共に童心を失っていく条件が調っていると云えるのではないでしょうか。この事については、都会と田舎の子供を較べる事も理解に益するでしょう。
 
 それでは、いつまでも童心を失わないでいる為に、私たちは、何を為す事ができるのでしょうか。

 例えば、幼少時においては、両親の影響力が絶大だという事が云えるのではないでしょうか。なぜならば、自然や書物の様な好ましい要素と縁を結ぶか、それとも、商業主義の産物という好ましくない要素に毒されるか、子供がどの様な要素と縁を結ぶかは、多くの場合において親次第だからです。その様な見地からは、いつまでも童心を失わないでいる状態が好ましいそれであるという事が理解できるならば、好ましい要素と縁を結ばせてくれる親の許に生を亨けた子は幸運だったのであり、その様でなかったならば、それ相応だったと捉える事ができるでしょう。もちろん、死後の世界を含めて考えるならば、幸運の様なものは存在しないのですが。
 
 ところで、幼少時においてはその様なのですが、私たちは、成長するに従い、自らの事は自分で決める様になって行きます。つまり、出生時において環境の格差が存在するにしても、徐々に、自らの自由意志を発揮する機会が増えて行くのであり、その様になったならば、自らを好ましい方へ向かわせる事も、逆に、間違った道を歩む事も、それは自分次第という事になります。この様な次第で、私たちは、仮に、出生・生育時の環境が調っていなかったとしても、神と共に生きる事を欲するならば、自由意志を発揮する事により、その様にする事ができる、すなわち、いつまでも童心を失わないでいる事ができるのではないでしょうか。私は、その様に考えているという次第です。

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このページは、Kenji Takahashiが2009年5月25日 07:20に書いたブログ記事です。

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